生活保護バッシングに映る、社会の歪み

6月27日、「命の砦裁判」とも呼ばれた2013年〜2015年の生活保護費引き下げ訴訟は、最高裁が国の対応を「違法」と認めました。

「デフレ調整では物価の変動率だけを指標にし、専門的な知識と整合性を欠く。裁量権の逸脱、濫用があった」として、生活保護法に反し違法と結論付けたものです。

 

国は当時の利用者およそ200万人に4000億円の差額を支払う可能性があるとのことですが、SNS上では「働かないのにさらにお金をもらえるのか」「年金生活者よりよほどもらっている」「裁判する時間に働けばいいのに」といった批判が拡散され多くの共感を集めていました。

 

生活保護は憲法25条に基づく最低限の生活保障であり、本来は専門家による審査を経て見直されるべきものです。しかし今回の引き下げは、不正受給を過剰に批判する世論に乗じて、恣意的な運用で進められたと考えられます。

実際には不正受給は0.5%程度にすぎず、本来受け取れるはずの人の受給率はたった2割というのが現実です。けれども、そうした背景が知られないまま「叩きやすい対象」として生活保護受給者がスケープゴートになっている現状があります。

 

その根底には、働いても生活が苦しい、報われないというやりきれなさがあるのではないでしょうか。

 

もし毎日が充実し、自分で選んだ仕事に誇りややりがいを感じられていれば、生活保護を受ける人を責める感情はこれほどには湧かないのではないでしょうか。

非正規雇用、低賃金、長時間労働といった「働いても報われない」構造が、不満をぶつける先を必要としているのではないでしょうか。

 

だからこそ私たちは、正確な情報に基づいた理解を深めるとともに、その怒りの矛先を個人に向けるのではなく、「働いても報われない社会構造」そのものに目を向ける必要があります。

生活保護を責めても、誰の暮らしも楽にはなりません。変えるべきは、今の社会のあり方です。

納得して働き、生きていける社会にしていくために。7月20日の参議院選挙で、私たち一人ひとりの意思を示しましょう。